こころのカフェテリア

香りを楽しみましょう Vol.8

「人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける(紀貫之)」.日本の和歌には,変わらぬ香りで懐かしい故郷や人を思い出す歌が多くあります.日本に限らず,世界に共通して,香りが昔を思い出すきっかけになる話があります.『失われた時を求めて』というフランスの小説家マルセル・プルーストの長編小説は,マドレーヌとお茶の香りから突然少年時代の記憶が蘇るところからお話が始まります.この有名なお話から,香りから記憶が蘇ることをプルースト効果ともいいます.
 香りはどのようにして,記憶・感情といった脳・心の働きを動かすのでしょうか.嗅覚の仕組みを簡単にご説明しましょう.香り・匂いは鼻腔の天井部分にある嗅上皮に作用します.嗅上皮の面積は500円玉くらいですが,そこには1千万個もの嗅細胞があり,匂いを感じとります.嗅細胞は神経細胞で,その線維は鼻の天井の骨にある穴を突き抜けて,脳に連絡します.この脳の部分を嗅球といいます.通常,神経細胞は再生しませんが,嗅細胞は1ヶ月程度で生まれ変わるという特殊な性質を持っています.
 近年,認知症のごく早期から匂いが分からなくなることが知られています.この理由の一つに,嗅覚の情報処理を担う嗅球などの脳領域に最初に病理学的変化を生じることが考えられています1).その他の理由に,脳内で死滅していくアセチルコリン神経の関わりが考えられます2).この神経は,認知機能や記憶に関わる新皮質や海馬に加えて,嗅球にも神経線維を伸ばしています.ところが,嗅球に連絡するアセチルコリン神経の割合は新皮質や海馬よりも少ないことが知られています.認知症の進行によりアセチルコリン神経が死滅していく際に,その影響は割合の少ない嗅球で最初に現れると考えられます.アセチルコリンの受容体を活性化すると,嗅球における匂い応答性が高まることから,同神経は嗅覚感度を高める働きが示唆されています2)
香りは加齢に伴う認知機能低下の予防においても注目されています.香りは呼吸をゆっくりと深くしたり3),アセチルコリン神経を活性化したりする等の作用があり,これらは認知機能にプラスに働くと考えらます.最近ドイツの研究チームは,香りを嗅ぐトレーニングが高齢者の認知機能の低下を防ぐ効果を報告しています4).今後さらに香りの効果とその仕組みが科学的に明らかになることが期待されます.
この年末年始には,匂い袋のお香や草花の香りなどをゆっくりと楽しみましょう.
(文:内田さえ 東京都健康長寿医療センター研究所 専門副部長)

文献
1) Murphy C: Olfactory and other sensory impairments in Alzheimer’s disease. Nat Rev Neurol. 15: 11-14, 2019
2) 内田さえ:嗅球の血流調節における前脳基底部コリン作動性神経系の役割.自律神経,57:212-216,2020
3) 本間生夫・帯津良一編:情動学シリーズ6情動と呼吸-自律系と呼吸法-.朝倉書店,2016
4) Oleszkiewicze A et al.: Beyond Olfaction: Beneficial effects of olfactory training extend to aging-related cognitive decline. Behav Neurosci. 2021, doi: 10.1037/bne0000478.