こころのカフェテリア

桜を見る Vol.10

一昨年も去年の4月も、コロナパンデミックで大学のキャンパスは閉じられていました。
咲き誇る桜と人気がないキャンパスの対比は現実感がなく、桜もいつの間にか散ってしまったようにおもいます。
今年はようやく入学式が行われました。新入生のざわめきと新歓の喧騒のうしろに咲く桜は、やはり美しいなとおもいました。

でも、本当にきれいな桜を見たのは、もっとずっと前のこと。
満開を過ぎていた頃だったから、ちょうど今頃かもしれません。
本郷の龍岡門のすぐそば。居候していたラボへ向かってボーっと歩いていたときに、たまたま目に入っただけのふつうの桜。
大きさも花つきも中くらいの、誰もわざわざ目を留めないような、平凡な桜です。
花びらがパラっと取れて、ひらひらひらと数枚落ちていく。
そんな凡庸な光景が、気構えなく油断しきっていたぼくの胸に、何かストンと落としました。

それは桜の美しさというよりも、その美しさの現実感だったようにおもいます。
もちろん千鳥ヶ淵や弘前のほうが、桜としてはよほど美しいのでしょう。
「千鳥ヶ淵の絢爛な」桜も「弘前の日本一の」桜もすばらしい。
だけど、桜の名所でぼくがみているものは、もしかしたら知識から得た印象の中にある桜なのかも知れません。
それは厳然とそこに立つ桜樹を見ているというより、どこか現実感のうすい「千鳥ヶ淵の桜」という観念の確認とも言えます。

「美しい花がある。花の美しさという様なものは無い」
「花の美しさ」は観念にすぎない。眼前にたしかに存在する「美しい花」を見据え、感じることが肝要である。そう小林秀雄は説きました。観念に囚われると、見ているつもりでも物事を見られなくなる。
気構えや知識は、もちろんいつも悪者というわけではなく、ぼくたちの知覚体験を豊かに修飾してくれます。
それ無しには、デュシャンの泉は便器でしかなく、星々も星座にはなりません。味気ない世界ですね。
それでも、飾り過ぎれば、飾りしか見えなくなるのです。
桜は、すっぴんで美しい。
平凡な名無しの桜だったから、あのとき心が隙だらけだったから、偶然ありのままを見られたのだとおもいます。
だからあの日、龍岡門で目にしたのは、桜の美しさではなく、厳然と立つ一本の桜だったのでしょう。
それはごく平凡で、そして美しい桜だったのでした。

今ぼくがあそこへ行っても、もうあの桜は見られません。
あれはもう名無しでなく、ぼくには「龍岡門の」桜になってしまったから。
でも今年も、ほかの誰かのこころに花びらをすとんと落としているのかもしれません。

(文:石津 智大 関西大学文学部心理学専修 教授)